ブログや、Facebookへの思い。なぜ、しばらく止めていたか。ゆっくり再開します。

久しぶりです。

最後にトスカーナのことを書いてからだから、約2ヶ月ブログからお休みを頂いていました。

止めていたのは、書くことが無いからでもなく、書くことが嫌になったからでもないのです。

怠惰になったというわけでもありません。(まあ、多少はあるかな。)

いつも書きたいことは、いっぱい一杯あるのです。

でも、一体何故、そして誰に向かって書いているのだろうかということが、自分の中で納得できなっくなって来たから、休んでいたのです。

いろんな人から瞑想を広めたいという気持ちがあったらブログを書くのは必須だと言われて始めてから、もう何年も続けていました。エルのブログも続けていました。

僕がブログをやめたからと言って、寂しいとか、困るとか言う人は居ないのではないか。

そして、僕自身が、例えばローマの街を歩いていたり、食べていたりしていても、どこかで「これをブログに載せよう」「きっと喜んでもらえるのでは」と思って居る自分がいるのを感じ、そして写真を撮ったり している自分がいることに、違和感を感じ続けていました。

充分にそこに居て、そこで充分に生きる。という僕の基本的な理想と異なる自分を感じているのです。自分を商品にしているような、そんな感じでしょうか。

それでも表現したいこと、伝えたいことは、毎日毎日限りなく自分の中から湧き出てくることは事実です。

日本語での表現力の稚拙なことにもかなり限界を感じていることも確かです。

だったら、他にどんな形で表現できるのかと自分に問いかけても、僕には、ワークショップやリトリートのような生きている形以外には今は見つからないようです。

稚拙でも良い、とにかく素直に書いてみようと続けてきたのですが、そして本も書いてみたりしていたのですが、ちょっと休憩が必要になったのでしょう。

 

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一体誰にむかって、僕は話しているのだろうか? なんの為に書いているいるのだろうか?

そういうことを問わずに、人を集めるための手段とか、知ってもらう為に有効なツールだから続けるというのは、寂しいというか、空しいところがあります。

僕は、長い間マーケティング、コミュニケーションの仕事をNYをベースにしてきました。とても楽しいエキサイティングな仕事でした。

でも、なぜ伝えたいのか、伝えざるを得ないのか、そういう根本的なところが資本主義の利益の論理だけで動いていたところが、どうも違うなあという気持ちがいつもありました。

今、僕が押し進めているTaoZenは、実ははっきりと僕の中で『なぜ』という基本的なミッションははっきりしているのです。

だから、下手でも堂々と伝えて行って良いはずなのに、なにかためらう自分があるのがあるのが、ある意味では愛おしいと思えるのも面白い。

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今日、例えばふとiTuneで再会した昔大好きだったペンギン・カフェ・オーケーストラの音楽。再会して嬉しいと思って、そしたら、その僕の気持ちの隅っこに「そうだ、ブログやfacebookで、この音楽を紹介しようと片隅で思った自分がいた。

そこに、良いものを見つけて、心と身体が動いたから、好きな人や友人に伝えたいという純粋な気分とはちょっと違った、どうも作為的なものを感じるのです。

ローマで、僕が一番大好きな場所。パンテオンに毎日、朝晩出かけた。その時も写真を撮って、ブログやfacebookに載せようと、ほとんど反射的に思った。その自分があんまり好きではなかった。

とても忙しい有名人たちも、実にこまめにブログやFacebookやtwitterを続けている人が多くいます。彼らの同機はどこにあるのだろうか?毎日、多くの人に分かりやすく興味深く書き続けているのには、驚きだ。

でも、僕は僕自身がエンターテイメントのメディアのようにはなりたくない。もっと純粋でありたい。

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いろいろ思いはあるけれど、それでも、僕はブログを再開することにした。

すこし新しい気持ちで。友達に書くような気持ちで。

ぜひ、応援をしてください。

 

 

 

 

 

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