チネイザンとの出会い(2)

チネイザンとの出会い(2)

誰にでも触るなんて、僕には考えられなかった。

触りたい人ならば、可能性があるけれど、それだって面倒くさいような、恥ずかしいような、そんな感じを持っていた。

まして知らない人を触るとか、もしかして嫌な感じの人に触るとか無理だなあと思っていた。

どうして、これが変わったのだろうか。

いろんな人のチネイザンをとにかく一杯受けてみた。

それによって僕自身が心身ともに変わっていったことも確かだった。

チネイザンを受けるのは好きだった。

そうすると、誰のどこが上手で、誰のどこが問題なのかもわかってくる。

名人と言われた人には、すべて受けてみた。ピーンと来た人には何度も受けてみた。

フィードバックも頼まれてするようになった。

もともとマッサージ好きではあったけれど、チネイザンに何か特別の新しい可能性を見出していたようだ。

今、振り返ってみると、受ける方のプロにはなってきたようだった。

それがいつか、施術をする喜びを味わうようになったのは、いつからだろうか?

チネイザンで人をタッチすることに寄って、その人の深いところに実に短い時間で繋がることができることを実感してきたからだと思う。

具体的なエピソードも思い出すけれど、いろんな積み重ねで価値を見出してきたと思う。

決して自分でやりたいということではなく、向こうから頼まれたのでやってきたのにもかかわらず、気がついたら結構な依頼が来ていた。

チネイザンを治療の方法としておこなっている人も確かにいる。

でも、僕の立場はこの点でははっきり違っている。

とにかく色んな方向から深く繋がること、タッチ自体が身体と心の栄養であること、恥ずかしいけれど、思い切って言ってしまえば、チネイザンが愛やエンパシーの具体化でないといけないと信じている。

批判や分析などを超えたものでないといけない、だから僕はチネイザンを二人で行う瞑想だと言っているのです。

治すとか、正すというのは、他のプロが行うべきなことで、僕たちはあくまでも原初的な”触れ合う”ということから外れてしまってはいけないと考えるようになった。

チネイザンとの出会いは、実は自分との出会い、そして他人との出会い、美と希望との出会いだったことを、今振り返ってみると実感する。

チネイザンのタッチで教わったことが沢山あります。

今度は、そのことについてお話しします。

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