2012.01.28

瞑想は、アートです。(その2)

瞑想は、もっとも抽象的なアートとも言えます。

全く見えない、聞こえない、コンセプショナルアートでもない。しかも、その場だけにしか存在しないアートです。

素晴らしいアートは、全く個人的だけれども、同時に個人という枠をすっかり越えているところがあります。だから他の人に響くのでしょう。瞑想には、確かにそういうところがあります。

同じ方法の瞑想をしていても、どこでやるか、いつやるか、誰とあるいは1人で行なうかで、ほんとうに変化があります。そもそも命というものはそういうものなはずです。

たった1人で瞑想していても、どこか自分を越えたところと響きあっている実感がある時もあります。グループで瞑想していると、知らない人とでも、確実に響きあっている実感があります。究極のアートだと思っています。

僕は、僕のワークショップや、クラス、セッションは、瞑想の一つの表現だと信じて行なってきています。誰が来てくれているのか、どんな場所か、何日なのかによって、同じテーマのワークショップでも、かなり違っています。これが人によっては、混乱を感じることもあるらしいのです。なぜ、前回と違うのか、言っていることが違わないか、方法も似ているけれど違っていると言われることもあります。根本的なところでは変わっていないと思っています。

アメリカのマネージャーには、いつも同じようにするべきだと注意されました。確かに著名な自己啓発の人達は、いつでもどこでも90%くらい同じことをしています。そうかもしれないと思って、いつも同じようにしてみました。でも、生き生きしていない感じでした。すくなくても僕にはそう感じたので、自分流に進めることにしました。

僕は、バッハのチェロ無伴奏組曲が大好きですが、同じ曲なのに違う人が演奏するとほんとうに違います。カザロスや、フルニエ、ロストロポーヴィチなど、演奏を聞き比べるのが大好きです。ヨーヨーマと数年一緒に仕事をさせて頂く素晴らしい機会がありました。ヨーヨーマの演奏を何度も聞いたことがありますが、毎回違うものが響いてきます。それは、僕のほうが変化していることもでもあり、演奏自体も変化しているということだと思います。素晴らしい曲というは、時代を越えて、人を越えて、場所を越えて、素晴らしいものです。バッハのチェロ無伴奏組曲は、バッハという個人が作ったというよりは、もっと大きな人間の素晴らしい智慧の一つのエッセンスの現れだと感じています。

そして、瞑想は、確実に、長い人間の智慧の流れで続いてきた、本質的には変化のないどっしりした命のアートだと思います。これは、僕がそうだと思っているのではなく、沢山の賢人が、言葉で、あるは、言葉以上のもので、そう伝えてくれています。

同じことを繰り返しても、響きがちがっていて、決して同じことはあり得ない。変化を拒否しない、でもどこか、なにも変わらない力のある、素晴らしい生きたアートです。

瞑想をけっして、博物館や図書館に閉じ込めたくはありません。山奥の洞窟にも閉じ込めておきたくありません。一緒に食べて、寝て、笑って、泣いて、そうしていくことで瞑想と進化していき、次の世代に繋げていくのが、一つの僕たちのミッションだと思っています。

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2012.01.27

瞑想はアートです。(その1)

瞑想はアートです。生きるそのもののアートです。

アートであるということは、すくなくても三つの要素があります。

1つは技術、あるいはテクニック。しっかりした基本的な技術がないと表現もできません。しかし、技術だけでは、上手だなあとか、きちんとしているなあということだけで、心が動くようなことにはなかなかなりません。

2つ目は、美学というか、豊な情感というか、センシティビティというか、エステティックです。でも、これだけだと、単に変な人というか、自分に酔っている人です。

3つ目は、なぜそれをしているかということを深く考えたり、洞察する智慧、知性。哲学です。これだけだと無味乾燥な理論や、やたら難しいものになってしまいます。しかし、哲学がないと方向性が失われます。個人のものだけになってしまいます。

この三つの要素が上手く融合してこそ、アートです。

ピアニストでも、技術だけでも、豊な情感だけでも、素晴らしい理論だけでも駄目です。その人らしい融合があって、始めて心に響きます。

では、この三つの要素がすべて三分の一づつあって、バランスが良いのが良いかというとそうではないと考えます。人それぞれ、また、その時、その時でバランスがダイナミックに変化してこそ、味わいがあるのです。人によっては技術が70%で他の要素が10%20%でも良いし。美のセンスが50%で後は、25%でも良いと思います。個人個人のパーソナリティが滲み出ていないとアートではありません。

時、場所によっても変化します。今日と明日とは違います。東京にいるのとパリにいるのとは違います。誰と一緒にいるのかによっても、違います。違わないならば、アートではありません。 (続く)

PS)僕は、チバソムにいて、個人セッションやクラスをしています。ここにいらしている人達は、本当に裕福な人達だけです。いろんなことを考えさせられます。お金の意味。お金で幸せや、健康は買えるか?幸せの意味。などなど。

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2012.01.25

内臓に微笑む。インナー・スマイル瞑想。

インナースマイル瞑想という方法があります。各内臓に微笑むという瞑想です。

この自分に微笑むということが、ピンと来ると言ってくれる人も、全く感じがつかめないという人もいます。すこし説明しましょう。

例えば、肝臓を例に取りあげましょうか。肝臓のことを普段感じたり、考えたりする人はほとんどいません。しかし、肝臓なしでは、生きていけません。肝臓がどんな事をしてくれているかを知らなくでも、肝臓頑張れといわなくても肝臓は僕たちの為に動いてくれています。肝臓は500以上の機能をしていると言われ内臓の大科学工場とも言われています。例えば、アルコールの分解、胆汁を作るなどからはじまり、解毒、代謝、排出、消化、体液のバランスなど、沢山の機能があります。

ところが僕たちには肝臓の動きや働きを感じることは、ほとんど無理です。沈黙の臓器とも言われています。

その肝臓に微笑むということは、まずは肝臓のある場所を大体分かる必要があります。そこに心を向けて、とにかく微笑んでみます。

そして、「いつも有り難う、これからも宜しく」と心で囁きます。生まれてからずうっと、働いてくれていて、死ぬまでお世話になるわけですから。

微笑むという表現にしていますが、どういうことかというと、「純粋無垢な微笑み」と、「なんでも認められる賢人の智慧の微笑み」の両面を持っています。

純粋無垢な微笑みというのは、メキシコやインドなどに行くと、あるいは日本でも田舎にいくと、ほんとうに純粋にただ微笑んでいるような子供たちと出会います。なにか欲しいわけでもなく、特に可愛げにしようとしているわけでもなく、ただ微笑んでくれている。そうすると、こっちは、なんだか微笑見返すしかなくなります。なかなか、ニューヨークや東京のような大都会ではそういう機会に出会いませんが。

こういうただ、微笑んでいるという感じで、自分の内臓に微笑む感じです。

なんでも認めるというのは、自分の内臓の調子が不十分だったり、あるいは、内臓のほうで怒っていたり、不安である可能性も、怒っている可能性もあります。どんな状況でも、それをそのまま認めるということです。期待したり、分析したり、批判したりしないで、そのまま受け止めるという賢人の智慧の微笑みです。観音様や大仏様みたいな感じでしょうか。

そんなことを自分の肝臓に数分してください。

それから、数分なにもしないで、そのままにします。安全な空間と時間を自分の内臓に作ってあげて、見守っている感じ。本来の生きる力、動きを邪魔しないで、そのままにしている状態です。考えずに期待せずに、そのまま。ここが瞑想の中心です。

インナースマイルを続けていると、自分が怒ったり、イライラしていても、内臓のどこかが、微笑んでくれている感じが分かってきたりします。内臓と自分は、お互い様です。内臓も自分の一部です。

こういうことを選んだ内臓にしてみましょう。心臓、腎臓、膵臓、肺、胃、生殖器など、なんでも良いです。一つ一つやってみましょう。

このインナースマイルは、簡単な方法ですが、とても奥深いものがあります。少しずつやって、深めてください。

自分の肝臓に微笑んで、肝臓からも微笑むことに慣れてきたら。他の人の肝臓にも微笑みを広げてみます。誰にでも肝臓があるのです。家族の人、大好きな人、大切な人、嫌いな人、気持ち悪い人、知らない人、みんなそうです。そういう人の肝臓にも微笑んでみることもできます。自分だけに肝臓があるわけではありません。自分の肝臓に、ほんとうに微笑むことができるということは、自分を越えた肝臓にも微笑むことになります。

微笑みというのは、強さと勇気をベースにしたものだと思っています。

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