高校、大学のときの親友が亡くなった。

高校・大学のときの親友の死の知らせが数日前に入った。
高校・大学のときの親友という表現は、その後は、会うことも話す機会も殆どなくなっていたからです。
でも、心の中ではずうっと親友です。

高校のときには、僕の周りでも一番元気な体育会系の男でした。
大学は、彼は早稲田、僕は慶応でしたが、それでも時々あったりしていました。彼がインド研究会というサークルに入っていた。そのサークルの2週間の旅に加えてもらうということで両親を納得させたりもした。(実際は僕は、1人で一年間インドにいたわけですが)

僕がNYに移ってからも、NYにまで来てくれたこともあった。

でも、彼は秋田、僕はNY。生きる場所、方向などが違ってきたので、殆ど会うことも連絡することもなくなっていた。

2年前ほどに実家に帰っていたときに、ふと彼のうちに寄って見た。
骨髄の問題で杖が必要でしたが、相変わらずの元気さでした。
20年ほどの時間が、あっという間に超えてしまう心の繋がりでした。
なんということもない話をした一時を思い出します。

この知らせを、数人の当時の友人と電話で分け合った。
こういうことが、これから増えるのかなあと思った。

太極拳のワークショップでも、皆と死について瞑想をした。
夜のOpen & Flowのクラスでは、もっと深 ´死’ということを話あって、死についての瞑想をしました。

有難うございました。僕なりの彼への追悼が出来ました。

ブッダ・ラッフィングというプラクティスで、いつも言っていますが、大切な人が亡くなるときに、心と身体のどこかで大笑いしながら送ってあげたい。自分が死ぬときに、魂いっぱいの大笑いで逝きたいと、いう練習です。
’死’というセレブレーションを謳歌できるかどうか、そういう意味のあるプラクティスです。

とにかく、逝ってらっしゃい! と心から伝えたい。

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