苦労が身につかない素敵な人たち。

昨年末、思いがけない届け物がありました。20年ちかくお世話になっている福岡に住む大屋さんという方から、佐賀の美味しそうなお肉が届きました。

お歳暮という大人っぽい(?)熨斗がついていたのもなんか嬉しかった。僕がやっているニューヨークのマーケティング会社で、ずうっとお付き合いさせて頂いているクライアントです。いろいろ苦労されてきている方ですが、その苦労がまったく身につかない方。いつでも前向きに楽しみながら生きているところと、義理ということを重んじている生き方をされている男です。

苦労をしないと出てこない味というものが確かにあります。「人は苦労をしないといけない」みたいな話を小さい時によく聞いたことがあるような気がするけれど、その頃は、全くナンセンスだなあって思っていた。でも、今、振り返ってみると、確かなところがあるようと思います。

僕が親友と思っている人たち、信頼している人たち、尊敬している人たちには、いくつかのパターンがあるなあ、って今朝の瞑想が終わってからのボーッとした時間で思っていました。僕には、この十分くらいの時間が一番、発想の富んだ時間です。

“苦労が身につかなくって、前向きな人” “頭が良いのに、それが全く身につかない人” “義理人情を大切にして生きている人” “いろんな経験をしているのに、まったく身につかない人” こんなタイプが多いのです。この大屋さんも、典型的なこのタイプです。

ニューヨークで暮らしていると、予想もつかない苦労を、しかも、命がけで生きてきた人たち、あるいは、今でもギリギリで生きている人と出会います。そういう中で、一見ヘラヘラと楽しく生きている人がいる。そういう人たちは、どこか圧倒的な暖かさがある。義理人情も熱い、そして、生きるということの情熱を感じる。それでいて、大抵、相当抜けているところがあって、微笑ましい。

そういうタイプの友人を持つことが出来たのは、僕にとっては大変な宝だと思っています。

その昔は一緒に住んでいたガールフレンドだったけれど、長年のビジネスパートナーであり、家族のようなニールもそういう人だ。イラン革命から逃げてやってきて、それからは、家族誰も母国には帰れない。親友のスティーブも、メリッサも不治の病を持っているのに、まったくもっと明るい。オランダのローレンスは、大変な頭脳の持ち主なのに仁義の世界に生きているようだ。こういう人達は、僕の宝だ。

日本にも、同じタイプの方がいる。大屋さんもその1人。頂いたステーキは、僕にとっては唯の高級な和牛ではなく、もっと味の深いものになりそうだ。こんなことを感じているのに、お礼の電話での僕の表現は、とても軽くなってしまう。僕の良さなのか、阿呆さなのかは、分からない。まあ、身につかない!だけには自信があるけれど、それが良い意味に育っていって欲しいと、自分のことを他人事のように思っています。

よしもとばななさんも、そういう宝の1人です。大変に努力しているのに、まったくその気配を見せない。素晴らしい才能があるのに、まったくそういう匂いを感じさせない。良いよねえ、そういう人って。そういう素晴らしい友人がいるのに、僕は、きちんと年始の挨拶もせずに、思いだけじゃあねえ。でも、思っていますよ。ばななさん!そうだ、明日、電話しよっと。きっとさりげなさ過ぎて、「何だったの?あの電話はって。大内さんらしいけどねえ。」思うだろうなあ。

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