マンタック・チアとヒーリング・タオ。

その後、マスター・チアは、週末にワークショップを始めるようになり、夏には2週間ほどのリトリートを行うようになってきた。

僕はお金が充分には無かったので、リトリートには最初の数年は参加出来なかった。

でも、週末のワークショップには、とにかくできるだけ参加した。

そのうちに彼の広告やマーケティングの手伝いをするようになった。名前もSecret Taoist Yoga だったのを変えるように提案した。

とは言っても、僕も彼も英語はかなり怪しいわけで、なかなか決まらない。Living Tao、Healing Tao などいろいろ案をだして、結局Healing Taoにした。

ヒーリングという言葉が、まだこんなに定着していなかった。

彼は積極的に大きく宣伝をしたいと言っていたけれど、僕は本を出すことに専念するほうが良い、広告は最小限が良いとアドバイス。

その頃には、僕自身もいくつかの大企業のアメリカでの広告を受け持つようになって来ていた。

 

ニューヨークで一人で特に僕のように外人が一人で生きていくのは、エキサイティングではあるけれど、大変なストレスと寂しさが伴う。

ちょうど僕個人は、別居、離婚などもあった。住む場所もままならなかった。それにその頃のニューヨークのエネルギーは特に凄まじいものがあった。

毎晩のようにキースへリング、アンディーウオホール、バスキアなどの集まるクラブにも出入りをする中、毎日の瞑想はかかさずに、とにかく殆どのマスター・チアのワークショプには出た。

同じ話を何度も何度も聞いて、なんどもなんども同じ瞑想や気功をやった。

僕の心の支えは、彼のワークショプにでること、面白い友人たち、そしてそれでも駄目なら大親友の居るカリブのプエルトリコに数日間逃げることだった。

瞑想が、個人には勿論素晴らしいものをもたらすことは体験していたけれど、瞑想が実は自分だけではなく人間とか人類とか大自然という大きな単位の意識と無意識に繋がるものだと実感しはじめたのも、この時期だった。

マスター・チアは、ゆっくりと2人で坐って、瞑想は何だろうみたいなことを、何故瞑想をするんだろうみたいなことろ話すというタイプではない。(僕は、そういうことを考えたり話すことが大好き。)

むしろ2人で中華街の小さなお粥屋さんで黙々と一緒に食べて、じゃあまた、とそっけなく別れるような関係。

新しい本が出る度に、「マサヒロ、どう思う、今回の本を」と皆の前で僕に聞く。

僕は「僕の好みではないのは知っているでしょ。でも、良いんです。自分の好きなことをやって下さい。僕は応援しますから。」と笑う。

彼は、どう見てもチャイナタウンで作った背広か、これもニセのブランドのトレーニングウエアを来ていた。

僕は、収入には全く似合わないアルマーニとか、コムデギャルソンを着ていた。

お互いに、刺激をしあってここまで来た。マスター・チアのすることにすべて賛成するわけではない。でもきっと一生、なにか深いところで繋がった友人であり師であることは確かのようだ。

今回、彼が日本に来て、二日間ワークショップを行なう。集まってくれる人たちに味わってほしいのは、彼の言っていることや技法ということはもとより、彼のもっているなにか不思議な力を感じてほしいと思う。それは実際に会わないと感じられないものだ。DVDやインターネットでは、感じられないなにかだ。

同じ空間と時間を共有してこそ、実感できるなにかだ。

マスターチアが、今世界でもっとも有名なタオの先生になったことが大切なのではなく、彼の中に流れる大きな力があるからだ。

 

Mantak Chia
Mantak Chia

 

 

 

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