二人の僕のアメリカの父

僕が、NYに来たころは、ちょっとしたことを、どうしたらいいか分からなかった。例えば、電話線をひくにも,レストランでオーダーするにも、大変なことだった。それに精神的には、とても追い込まれることがしばしばだった。
そういう時に支えてくれた人が沢山います。マスターチアもその一人だけど、二人とも英語の怪しいアジア人ですから、お互いに頼りあっていたという感じだったかもしれません。

僕にとって,アメリカ人の父となってくれた人が二人います。

一人は、ミスターライオン。
古い広告業界の典型的な人だった。いつもキチンとしたスーツで、金曜は昼に食事をして、そのまま郊外の家に帰るのが常でした。
僕は、月に一度、同じフレンチレストランの、同じ角のテーブルで、昼をご馳走になったものです。僕は、広告のことが分からず、よくライオンさんに訪ねたり、あるいは、彼の友人を紹介してもらったりしました。
彼とは、一度も仕事をしたことがありませんでしたが、彼がリタイアするまで、このランチは続きました。

いいとこの育ちの人で、趣味はF1カーレースと葉巻。彼自体は、中級の管理職でしたが、紹介してくれる友人は、皆、大きな広告代理店の社長とか、出版社の社長とかでした。奥様は、ぐっと庶民的で野球が大好き。メッツの熱狂ファン。丁度、僕がメッツのスタジアムに看板をアレンジした頃だったので、ランチのお返しにチケットを差し上げていました。

僕が、アパートを購入しようとした時にも、離婚をしようとしたときにも、彼は、とにかくサインする前に見せなさい、といってくれました。

久しぶりにライオンさんに電話をしてみました。
奥様の具合が、この半年とても悪くて、彼が看護をしているそうです。息子とは、いろいろあって、話もしなくなったとか、いろいろ長い話をしました。

今は、フロリダとニュージャージーに住んでいて、NYには5年も来ていません。

懐かしいランチをしたフレンチレストランは、今はもうありません。そこで、良く戦争の話やら、女の話やら、仕事の話やら、沢山してくれました。
英語もままならない日本人の僕に、全く利益を考えないで心を開いてくれた人の一人です。
ランチの会話で、彼の暖かさに何度か僕は感動して涙が出たことがありました。
“Your phone call made my day!Than you.”という言葉で終わりました。あり難いのは僕のほうです。
電話を切ってから、やはり涙が出てきました。今は、82歳くらいだと思います。かつてのプレイーボーイが、海辺の大きな家で、奥さんの介護をしている姿を思い浮かべながら。

もう一人のアメリカの父、ミスター・シュライバーのことは、また別の時に紹介します。

シュライバーさんにも電話をしてみました。久しぶりに二人のアメリカの父親と電話で話しをしました。

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