食は愛。 食はアート。 食は気功だ。

今回のフランスでは、いっぱい美味しいところに行きました。
日本でも美味しいところに行きました。

今までに、仕事や友人と本当にいろいろな美味しいところに行く機会がいっぱいありました。
考えてみると、僕は小さいときから外食が多かった。
両親が食堂をやっていたので、その食堂で自分でオーダーして食べることも多かった。家が忙しかったので、小学生のときから、一人で寿司屋にいったり、レストランに行ったり、ホテルのダイニングルームに行ったりもしていた。
そして17歳のときに一人暮らしをし初めてから、今まで殆どが外食だ。
結婚していた時でも、一緒に住んでいても、外食が多かった。
一体今まで、食にどのくらいお金を使ったんだろう?

栄養のバランスも悪いだろうに、ここまで大きな病気もしないで来れたのは、瞑想や、気功のおかげだろうか?
食べるものに気はつけているつもりではいます。でも、外食ではなかなか栄養のバランスを取るのが大変です。

完全な菜食だったことも何年かある。毎年15日くらい断食していたこともある。
いろんなダイエット(USでは、ダイエットというのは、食事法という意味です)が流行ると必ずやってみます。ハイカーボ、ローカーボ、ローフード、ハイプロテイン、ゾーン、マクロバイオテック、、いろいろやってみました。

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          (食材にも、愛や氣が充実していないと美味しくない)

そこで、最近、考えることがあるんです、食ということに。
上手く説明ができるかわかりませんが、やってみます。

要は、僕の好きな、そして美味しいと心から思える食というのは、愛とかケアとか氣とかがどのくらいあるかということだということです。
食物が作られたり、捕まえられたりして、その後、輸送されて、それから料理されて、それで、サービスされて、食べられて、消化されたり排出されたり、それが食べるという大きなプロセスです。このすべてのプロセスで、どのくらい愛とかケアが含まれているかが、美味しいかということだと、今は結論を出しています。

調理の仕方、味付けとか、盛り付けとか、もちろん大切です。
でも、そういう小手先だけでは美味しいと思えなくなってきました。
最近行ったミッシャル・ブラや、ロブションや、畑中などは、もちろん美味しい。でも結局は、そこに愛とかケアが含まれているかが、最近味わえて来た感じなんです。

どんなに腕のいいシェフが作っても、サービスに心がないと美味しくなくなってしまう。食べるほうも、愛がない状態で食べると美味しくない。
オニギリなんかいい例です。握った人の手に心があるかないかで味がウンと違ってくる。その違いが、次の日に歴然とします。

食について話すときに味とか栄養とかは、もちろんですが、そこに愛とか氣とかが生きているかどうかがキーだと思うんです。
そして、それは味わうことが出来るものです。そして、栄養に関わってくるものです。

お母さんの味が一番!と言っているわけではありません。お母さんだから、必ず料理に、材料に、愛と氣でいっぱいというわけではありませんから。

この旅で、ベナスクというプロバンスの小さな村で、(ここはお勧めの場所です)夕飯をしました。村に一軒しかないレストランで、しかも安くなくって、きっと美味しくはないだろうと思って行きました。この村にはパン屋も一軒しかありません。
コースしかなく、しかもアペタイザーには、パテの盛り合わせ、メインディシュには、鳥にアンチョビのソース、それにチーズのデザート、などでした。どれもヘビーで僕が好んでオーダーするようなものではなかったのですが、実際に食べてみると美味しい。決して好みのものではないのに美味しい。心が入っている感じです。サービスしている人たちもフランスにしては珍しくテキパキとしている。サービスも気合が入っている。
この田舎のレストランは、チベットに援助をしているということまでメニューの隅っこに書いてありました。
なんか、好みでない料理をここまで、美味しく食べさせてくれたのが嬉しかった。シェフに、有難う!といわずに帰ってきたことが悔やまれます。こういう時になんか変に恥ずかしがったり、常識的になってしまう自分をみて、残念だなあって思うことがあります。

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(venasqueにあるレストランのアペタイザー)

NYの有名なNOBUや、MORIMOTO、MEGUなどは、僕の好きな系統の食事なのに、高いのに心が入っていなくってガッカリです。心のない高級レストランの典型です。食はエンターテイメントだとか、ビジネスだとか言っていますが、寂しい限りです。

食材にも、料理人にも、そして、食べ方にも、心というか、氣というか、そういうものがないといけないなあと、この数年感じています。

僕は、料理はできないので、少なくても食べるときに、心を込めよう、それと、心とかケアとか氣とかを味わって、なるべく楽しく頂こうと思っています。
美味しいということを、僕は長年、食材と料理法だとおもっていたけど、もっと別のディメンションがあると気がついてきました。そういう観点での身体と心と魂に美味しい食というものを探していきたい。

料理はアートなんだと思う。アートである限り、エンターテイメントでもないし、科学でもなく、計られるものでもない。そういうものだと、最近実感しています。アートである限り、作るということと鑑賞するということが一緒の次元にないといけません。

食いしん坊の道もなかなか、深いものがあるかも。

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            (南仏の太陽の氣を頂いています)

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