僕が瞑想では、もっとも影響を受けた、本山博先生との再会!
本山博先生と会ったのは、僕がインドから帰ってきてからしばらくしてからです。1978年くらではないかと思います。
大学3年のときに一年休学して、インドにある意味では死ぬ覚悟で行きました。
当時は、インドに行くのは、かなり不思議なことでした。なぜ、インドでなければいけなかったかは、別のときに説明したいと思います。
とにかくインドでヨガの瞑想を習って、最初はなぜ、瞑想をするのかはっきり分かりませんでした。なにしろ、僕のヨガのイメージは、くにゃくにゃ運動でしたから。何件もヨガアシュラムを訪れても、僕がいくところは瞑想を教えてくれるところでした。
日本に帰ってきて、瞑想だけは、もっと先生がいないと先に進んでいかないと思っていました。太極拳や、ハタヨガは、なんとか自分でもやっていけると思っていましたが、瞑想だけは、自分では分からない。
そう思っていると、どこからか、本山博博士が超心理学をやってらして、本物の瞑想の先生らしいという情報が入ってきた。
早速、数冊本を購入。でも僕は、こういうものは実際に会って感じるものであり、教えてもらうものだと信じていましたので、吉祥寺の宗教心理研究所というかなり所に足を運びました。
運よく、本山先生は、僕とその日に会ってくれました。最初の印象が、この方はインド人だったのではないかというものでした。
それから、いろいろありましたが、僕はとにかく片道1時間半もかけて、朝の30分くらいの瞑想に通いました。3年くらいは通ったのかと思います。
そのころもいろいろ不思議なことがありましたし、自分の瞑想が進んでいるという実感がありました。実際に本山先生から詳しいテクニックを教わったわけではないのですが、一緒に座っていて、いろんなことを教えていただいた感じです。
その後、アメリカに僕が住むようになって、瞑想をいろんな有名な先生に習いました。初心者用の瞑想は結構目新しいものに出会いましたが、中級、上級(瞑想に上級とか中級とかがあるとは思えませんが)のテクニックを教えてもらうと、僕が本山先生と経験したものと、実に全く同じ経験なのです。説明がついたということだけでした。
言葉ではなく、本ではなく、同じ空間を過ごすことによって教えていただいた本当の訓練でした。
こういうことが、実はとても貴重なんだと、今になってつくづく感じています。
トランスフォーメーションというのでしょうか、’伝わる’という教えができる数少ない方です。
こういう方が、結構知られていないということが、僕は信じられないくらいです。
NYに住み着いて28年、本山先生とも、もう20年以上もお目にかかっていませんでした。
今回、ふとした縁で再会いたしました。
会ってよかった。貴重な存在です。こういう方が存在するということ自体が貴重です。有名な方、金持ちな方、いろんな人と会いました。
でも、心から人間としていてくれて有り難いと感じる方というのは稀です。
インドで会った、名もないヨギもそうでした。有名な方では、ダライ・ラマも、ケン・ウイルバーもそうです。ただ居るだけで、教えが伝わるのです。
本山先生と再会して、28年前はちょっと存在自体が怖かったのですが、今回お目にかかって、気軽にお話をしていただき、なんか本当ならば抱きつきたいくらいでした。
20数年ぶりにあっての最初の僕に対しての言葉が
「おお、お前か!お前にも額にしわが出来たなあ。アッ八ッハ」
でした。
いいねえ、これ!って思った。「おお、先生も多少しわが増えましたなあ!アッ八ッハ」とやり返すだけの自信はまだなしに。
「はあ。そうですねえ」って情けない返事でかえす僕でした。
でも、この会話が、とてもいい。
涙がでるほど、いい!
こういう生きる智慧が、もっともっと増えたら楽しい。
決して完璧でない、決して仙人でないところが、彼の素晴しいところです。それでいて、人間の魂というか、意識の進歩には命をかけていらっしゃる。
嬉しい再会でした。
いつかタオゼンの皆とも、10分でいいから瞑想を一緒にしていただけないかと思っています。
(だらだら長い分で御免なさい。まだまだ書きたいことがいっぱいありますが、今夜はここまでで。)