避難所訪問。こんな良い人たちを、こんなにしておいてはいけない。

被災地では、避難所も回ってみました。

でも、いったい個人で伺ってもいいものなのか、どうか?

邪魔にならないかなど、いろいろ考えましたが、インターネットで支援物資の必要なもののリストがのっているサイトhttp://fumbaro.org/がみつかり、電話をしてみて実際になにが必要なのかを確認してから伺うことにしました。必要な物資のリストが細かく載っています。男子用下着とかティッシュとかは分かるけど、ギンガムチェックのドレス一着とか、アディダス23cm一足とか、なかなか細かいのが、とても現実的で、しかも、なにか暖かい感じまで受けます。

「いえいえ、我々はそんなに必要ではないですよ。」みたいなトーン。「でも、折角ならばなにか必要になっているものを少しでもお持ちしたいと思っております」 「じゃあ、ミネラルウオーターとコーヒーシュガーでも、すこしでも。」

謙虚なのか遠慮なのか、良くわからないけど、まあ、とにかくいい人という感じが電話だけでもにじみ出ている。

他の所でも、「じゃあ、お言葉に甘えて外履きのサンダルでも、数足頂けますか。」みたいな謙虚さ。

こうなると出来るだけ持って行こうと、土地勘もないし、方向音痴だけど、スーパーなどを探して出来るだけ持って行った。

最初の避難所は、若林地区の六郷中学校の体育館。大きな体育館に約200名の人が畳2帖に一人くらいで住んでいます。

優しい強さのある組合長の相澤さん。

3ヶ月経ったのに、きちんと整頓されていて、清潔。さすが、日本人だとちょっと誇りに思った。他の国でみた避難所というかレフジーの場所はこんなに綺麗にしていないし、団結もしていなかった。ここのリーダーは、農業組合長の相澤さん。「物資を皆に渡しているところをどうやって写真に移しますか?」意味が分からずいたら、どうも、写真を移す為に来る方が結構いるらしい。僕らの前に来たのは、なにかソックスの組合かなにかで、ソックスを一人一人に渡すのを写真にとりたいとか、、、。全くあきれる奴らだ!こういう人には、頭に来る。

いろいろお話を伺たいのですが、お忙しいでしょうからと言うと、「まあ、家にでも上がってください」お家といっても畳3帖くらいのところに家族の方がごろ寝しているところ。早速お邪魔した。話をするとするほど、本当に言い方という感じ。この日は地震からちょうど3ヶ月ということで合同葬儀みたいな儀式があるということだったのに、いろいろ話てくれた。

三本塚という農家の方々がほとんど全員ここに避難しているそうだ。だからだろうか、体育館にはTVでみるような段ボールでのしきりもなく、壇上に立つと全員が見える状態だ。仮設住宅に入る場合は、抽選のようですが、それでは、コミュニティが壊れるのでは?

「まったくそうです。そうなると心の問題が大きくなります。皆で生きて来たのですから。」「これからの生活のプランは全くたてられない状態です。でも、皆様に助けられて、本当に有難いです。」

ウーン、そういうことだろうか、日本は、世界2位か3位の経済国とか言っているけど、こんなことではいけないのでは。この人たちには全くの責任がないのに。被災者の方々が有り難うと言っているのが、本気なので、こちらが恥ずかしくなってくる。

「これからは、癒しのプレゼントが嬉しいと思います。」塩害が酷くって、農業をするためには大変な作業になりそうだ。

これからの暑さにどうやって対処して行くのだろうか?3ヶ月たっても、全く生活のプランも建てられない状態だ。

いったい僕たちには何が出来るだろうか?

次に、石巻の湊小学校に行った。こちらには、220人くらいの方が小学校校舎全部を使って住んでいる。自衛隊が体育館で炊飯をしていて、近所に避難している人も含めて食事を供給している。外人のボランティアも入っている。テントの大浴場も、ある個人から寄付で出来ていた。津波につかって使えなかった所を、最初はアメリカ軍がきて、その後に自衛隊がきて使えるようにしてくれた、というのは、事務局の高橋さん。この方も、いろんな話をしてくれました。この石巻で生まれ、この小学校を出て、ここで生活してきた高橋さん。東京や仙台に子供がいらっしゃるそうですが、やはり石巻が大好き。ここ以外で生きて行くのは考えられないと仰っていた。避難所にいる多くの方たちは、高年齢者だ。

いろいろ話をしてくれる高橋さん。後ろの二人とテーブルは、病院の仮出張所。

至る所に「有り難う」とある。この人たちは、本当にいい人たちだ。

石巻港は、異様な匂いで包まれていた。魚が腐っているような匂いに、なにかケミカルの感じと、火事の後のような、そして湿気の匂いが混じったような。湊も街も崩壊状態。これから、いったいどうするんだろう?

女川港や、そのもっと北にある雄勝湾なども見て来た。道路はなんとか綺麗になっているものの、場所によっては、3ヶ月前とほとんど変わっていない状態だ。

この人たちや、この場所のことを、政府や、メディアは本気には考えていないだろうなあということを実感した。きっと適当な援助金と、仮設住宅で、終わってしまうのではないだろうか?あとは自分たちで、という具合になってしまうのでは?

東京に帰って、感じている事は、「この人たちのことを日本は忘れてしまうんじゃないか」「東北の東沿岸のことは、多くは忘れられるのではないか」という危惧です。

日本経済のど真中でにはいない、我慢強い、とても真面目な良い人たちのことを、この国は忘れてしまうんのでは無いだろうか?忘れてしまいたいと、どこかで思っているのではないか?

良い人たちという、とてつもない単純な言葉でしか、表現できないほどの真実がそこにあると、感じた。

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