京都、俵屋旅館で。
京都俵屋旅館にて。 2007年9月18日
俵屋さんに泊めさせていただいている。
泊めさせていただいているという表現が、正しい。
なぜならば、僕のような半分外人の人間は、本当の日本的な美も、本当の外国の美も中途半端なところがあるからで、まあ、身分不相応というところがある。
しかも、今回は、プエルトリコとキューバからの俳優・モデルのお客様をお連れした招待旅行なわけで、本当に泊めていただいているという感じです。
でも、だからといって楽しむことを遠慮する必要は無いわけです。
うんと味わおうとおもっているわけです。
まず、最初の印象は、これが世界でも有名な旅館なの?
とにかく小さい、こまこましている、本当に古いヨーロッパの建物のような歴史は感じられないし、かといって新しいリッツカールトンのようなゴージャスな感じもない。といって温泉旅館のような雛ぶれる#たところもない。お茶屋さんのような華やかなところも、禅寺のような重厚さもない。
なんかなあと思いながら部屋にはいる。
お風呂も、ぼくでも小さいから、外国人のセレブの方たちはどうするんだろう?
などと心配しながら、夕食をいただく。
伝統的な懐石とはいえ、ちょっと現代的。
とにかく量がおおいのがちょっとなんだか。
味はといえば、とても美味しいけれど、もっともっと美味しいお店が、最近では多くあります、という感じだった。
インターネットでメールを確認して、ブログでも書こうかと思ったものの部屋には接続がない。
アーネストサトウという以前のご主人の書斎に一台マックがあるだけ。その書斎は、小さいながらも、なんともいえない落ち着きがある。でも、いまどきインターネットの接続がない超一流宿というのはなあ。
浴衣で近所を散歩して、床につく。
時差もあってか、朝の5時半に目覚める。
その時に、ふと、身体全体で、”素晴らしい“と感じた。
なんともいえない落ち着き。なんともいえない空間。小さい印象があるのに、実はそんなに小さくない。
部屋のどこに座っても、角の書斎のコーナーに座っても、目の高さになにか不思議なビジョンがある。
証明もなんか、昔、どこの家にもあったナショナルの日本風?な明かりと思っていたものが、じつは結構計算されているものに気がついた。
このこびない空間とサービス。
昨日までいたミッドタウンのリッツカールトンのような、表面は目立つサービスと、強引にゴージャスだろうっと訴えてくる空間とは打って変わって、気がつかないようなサービスと空間。
嬉しいと思った。
こういう目立たなくてもいい、気がつかなくてもいい、そういう自身がどこかにある。
頭がぶつかるような天井、身体に優しくない布団。でも、これは、却って美しいということが分かった。
日本はもっともっと自信を持って欲しい。
我々のもっていた空間にたいしての美学、それと決して目立ちたくない心使い、静かさのある優しさなどを、もっともっと大切にしてほしい。
ミッドタウンや六本木ヒルズ、そしてマンダリンオリエンタルやリッツカールトンのような分かりやすい空間とサービスは、どうも、僕には貴重な感じがしない。
そういう分かりやすくなってしまっているもの、なんでも説明してしまっているようなものには、ちょっとゲンナリだ。
アメリカナイズということが、もしかしたら、そういう軽いもの、常に訴えているようなものになってしまっていないだろうか?
心も行動もグローバルである必要はあるけれど、やけに分かりやすくなってしまったり、目立つことは必要ないと感じます。
とにかく日本の心のもつ、微妙なものも、大切にしたい。
そういうことを、キューバ出身の美人と、プエルトリコのハンサムと、話した。
彼らも、同意していた。
僕の心の中にある、日本的なもの、東洋的なもの、そして、またグローバルなものを大切にしたいとつくづく思った。
流石、俵屋なのかもしれない。
こういうことを感じさせてくれるだから。