瞑想は、アートです。(その2)
瞑想は、もっとも抽象的なアートとも言えます。
全く見えない、聞こえない、コンセプショナルアートでもない。しかも、その場だけにしか存在しないアートです。
素晴らしいアートは、全く個人的だけれども、同時に個人という枠をすっかり越えているところがあります。だから他の人に響くのでしょう。瞑想には、確かにそういうところがあります。
同じ方法の瞑想をしていても、どこでやるか、いつやるか、誰とあるいは1人で行なうかで、ほんとうに変化があります。そもそも命というものはそういうものなはずです。
たった1人で瞑想していても、どこか自分を越えたところと響きあっている実感がある時もあります。グループで瞑想していると、知らない人とでも、確実に響きあっている実感があります。究極のアートだと思っています。
僕は、僕のワークショップや、クラス、セッションは、瞑想の一つの表現だと信じて行なってきています。誰が来てくれているのか、どんな場所か、何日なのかによって、同じテーマのワークショップでも、かなり違っています。これが人によっては、混乱を感じることもあるらしいのです。なぜ、前回と違うのか、言っていることが違わないか、方法も似ているけれど違っていると言われることもあります。根本的なところでは変わっていないと思っています。
アメリカのマネージャーには、いつも同じようにするべきだと注意されました。確かに著名な自己啓発の人達は、いつでもどこでも90%くらい同じことをしています。そうかもしれないと思って、いつも同じようにしてみました。でも、生き生きしていない感じでした。すくなくても僕にはそう感じたので、自分流に進めることにしました。
僕は、バッハのチェロ無伴奏組曲が大好きですが、同じ曲なのに違う人が演奏するとほんとうに違います。カザロスや、フルニエ、ロストロポーヴィチなど、演奏を聞き比べるのが大好きです。ヨーヨーマと数年一緒に仕事をさせて頂く素晴らしい機会がありました。ヨーヨーマの演奏を何度も聞いたことがありますが、毎回違うものが響いてきます。それは、僕のほうが変化していることもでもあり、演奏自体も変化しているということだと思います。素晴らしい曲というは、時代を越えて、人を越えて、場所を越えて、素晴らしいものです。バッハのチェロ無伴奏組曲は、バッハという個人が作ったというよりは、もっと大きな人間の素晴らしい智慧の一つのエッセンスの現れだと感じています。
そして、瞑想は、確実に、長い人間の智慧の流れで続いてきた、本質的には変化のないどっしりした命のアートだと思います。これは、僕がそうだと思っているのではなく、沢山の賢人が、言葉で、あるは、言葉以上のもので、そう伝えてくれています。
同じことを繰り返しても、響きがちがっていて、決して同じことはあり得ない。変化を拒否しない、でもどこか、なにも変わらない力のある、素晴らしい生きたアートです。
瞑想をけっして、博物館や図書館に閉じ込めたくはありません。山奥の洞窟にも閉じ込めておきたくありません。一緒に食べて、寝て、笑って、泣いて、そうしていくことで瞑想と進化していき、次の世代に繋げていくのが、一つの僕たちのミッションだと思っています。