シバナンダ・アシュラムでのお祈り。(2)



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次の朝、5時に起きてシバナンダのアシュラムに行く。

ハタヨガのクラスに参加。

ハタヨガというのは、身体的なヨガというのが一般的な解釈で、日本や欧米で流行っているアサーナというポーズを作るヨガと考えても良いと思う。

本来はそういうだけのものではなかったのだけれど現在は、まあ、そういう定義が一般的かと思う。

男性だけ参加ができるクラスだ。

そういえば、昔も男性しか見なかった。女性のクラスは無かったと記憶している。瞑想も女性は見なかったと思う。

女性はお祈りの時と食事の時にはいたような記憶がある。

現在は、女性向けのハタヨガと男性向けのハタヨガは別々になっているらしいが、実際には女性向けのクラスはやっていないらしい。

クラスは、薄暗い埃っぽい部屋で行なわれたいた。かなりお腹の出ているヨギが、インド訛りのきつい英語で教える。

アサーナのレベルはニューヨークや日本と比べると、かなりレベルは低い感じだ。

アシュラムの中にある寺院でプージャ(お祈り)が行なわれていたので入ってみた。

キルタンと呼ばれるインドのお経が歌われていた。

これだこれだ、僕が昔ここにいたときに朝、良くわからないけど一緒に毎日1時間も口ずさんでいたのは。

僕は端に坐ってみていたけれど、無言で一緒に参加しないかという誘いがあったので、一緒に列に参加した。

僕はインドの祈りが好きだ。それが何故だか分からないけれど、インドやチベットの祈りの中にいると圧倒的な心地よさに包まれることが多い。

キリスト経や中国儒教や南方仏教ではあんまり感じない不思議な心地よさを僕は感じる。

一人一人の願いとかだけではない、もっとユニバーサルなもの、天体的なものを感じるからかもしれないし、あんまり信じてはいないもののサンサーラ(輪廻)の問題かもしれない。

インドにいると、実はなんども、僕はここに昔住んでいたのかもしれないと思うようなことがある。

それは輪廻というものがそうさせるのか、インドという土地と文化の強さがそうさせるのか、僕がかってに妄想するのか分からないけれど、これも心地が良いので、そのままにしている。特に理由を考えるのはやめて、空気の中に実を委ねている。

シバ・リンガを中心においた神殿では火と水を使ったセレモニーが行なわれる。黄色い花も沢山使われる。

僕たちの日常生活の中で、祈りということが随分と価値が薄くなっているなあ。

祈っても神社やお寺に行ったとき、あるいは単に個人的な祈りになっているのではないかと思った。

瞑想と祈りは違うもので、僕は瞑想を中心に行なっているけれど、祈りということについて、もうすこしじっくり考えてみてもいいなあと思った。

なにか自分の身体や感情や考えをこえる大きなものに包まれた感じのする数時間だった。

(続き)

 

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